ムスカは、ジブリ作品では珍しい悪役と評されるが、
ラピュタ文字の解読は、現実世界ならノーベル賞ものの偉業だろう。
ラピュタ文字の単語をびっしりメモしたその手帳からは、未知への真剣な情熱、古代への情熱が感じられる。
かれもまた、子ども時代からずっと、自分の異質性をうすうす感じ、あるいは集団にとけ込めず、自分のアイデンティティー、源流を求め、さまよいつづけてきたのかもしれない。
自分の真のふるさとを発見したとき、かれがそこに命をかけたのはふしぎではない。
ムスカ視点で語ると、苦節数百年、幻の王家復興を図ろうとする物語、しかし王家の内紛に敗れ失意のうちに滅び去る…
ということになり、それはそれで、案外、“日本人好み”になるのかもしれない。
今年9月にお伝えしました
「リスモくんさん死亡」記事に引き続き、短期間において2度も弊紙報道が現実になってしまったことは、編集部としても甚だ遺憾と言うほかありません。
編集部責任を明確にするため、当該記事の執筆に関わった社主UKに対し減給40%(2ヶ月)の処分を決定いたしました。
今後このような誤報を繰り返さぬよう、さらに記事のチェック体制を強化するなど、現実世界に影響を及ぼさぬよう注意を払いつつ、虚構世界の報道に努めていく所存です。
ちょっと古い話題で恐縮だが、私も何人かから「フツーに旨い」とか「フツーにスゴイ」の意味について聞かれる機会があった。それで分かったのは、この言葉のニュアンスを理解して使えているのは、30代くらいが限界だということだ。50代だと意味を理解できなくて、40代くらいの人は無理して使っているか、下の世代への理解を自覚して使っているように思える。もちろん、これは私が個人的に会話した経験則に基づくもので、業界や個々人の価値観によって差はあるのは言うまでもないが、大体、他の人にも共感してもらえるのではないかと思う。
そもそも、「フツーに」というのは、多様化した価値観をニュートラルに戻すための言葉である。
この言葉を使う世代は、「ネタ的にアリ」「テレビ的にOK」「ある意味スゴイ」と、自分の価値とは違っても、それを許容することを可能として育ってきた。肯定の価値基準が極めて多様で、「ある意味それもアリ」と、常にメタ視点を内包している文化なのである。そして、逆に人からは否定されるようなことでも「ワタシ的にアリ」と「自分の気持ちを大切にすること」を通してきた文化である。面従腹背などではなく、多くの人は心底、「それもアリだよね」と思っている。
そういう、「あれもこれもアリ」という多様化の価値観でがんじがらめになった時に、それらをリセットして共通の認識であることを明示する時に使う言葉が「フツーに」なのである。
アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う。
ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。
壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」
そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、 いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、
大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう